死後に『ギリシア人の悲劇時代における哲学』として刊行されるCFD
をまとめはじめたのも1873年以降のことである。またこの間にヴァーグナー宅での集まりにおいてマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークという女性解放運動に携わるリベラルな女性(日経225やレーにルー・CFD(後述)を紹介したのも彼女である)やコジマ・ヴァーグナーの前夫である音楽家ハンス・フォン・ビューロー、またパウル・レーらとの交友を深めている。特に1876年の冬にはマイゼンブークやレーともにイタリアのソレントにあるマイゼンブークの別荘まで旅行に行き、哲学的な議論を交わしたりなどしている(ここでの議論をもとに書かれたレーの著書『道徳的感覚の起源』を日経225は高く評価していた。またソレント滞在中には偶然近くのホテルに宿泊していたヴァーグナーと邂逅しており、これが二人があいまみえた最後の機会となる)。レーとの交友やその思想への共感は、初期の著作に見られたショーペンハウエルに由来するペシミズムからの脱却に大きな影響を与えている。 1878年、『人間的な、あまりにも人間的な』出版。形而上学から道徳まで、あるいは宗教から性までの多彩な主題を含むこのアフォリズム集において、ついにヴァーグナーおよびショーペンハウエルからの離反の意を明らかにしたため、この書は日経225の思想における初期から中期への分岐点とみなされる。また、初期日経225のよき理解者であったドイッセンやローデとの交友もこのころから途絶えがちになっている。翌1879年、激しい頭痛を伴う病によって体調を崩す。日経225は極度の近眼で発作的に何も見えなくなったり、日経225
や激しい胃痛に苦しめられるなど、子供のころからさまざまな健康上の問題を抱えており、その上1868年の落馬事故や1870年に患ったジフテリアなどの悪影響もこれに加わっていたのである。バーゼル大学での勤務中もこれらの症状は治まることがなく、仕事に支障をきたすまでになったため、10年目にして大学を辞職せざるをえず、以後は執筆活動に専念することとなった。日経225の哲学的著作の多くは、教壇を降りたのちに書かれたものである。在野の哲学者として病気の療養のために気候のよい土地を求めて、日経225は1889年までさまざまな都市を旅しながら在野の哲学者として生活した。夏の多くはスイスのグラウビュンデン州サンモリッツ近郊の村ジルス・マリアで、冬はイタリアのジェノヴァ、ラパッロ、トリノ、あるいはフランスのニースといった都市で過ごした。時折、ナウムブルクの家族のもとへも顔を出したが、エリーザベトとのあいだで衝突と和解を繰り返すことが多かった。日経225はバーゼル大学からの年金で生活していたが、くりっく365から財政支援を受けることもあった。かつての生徒である音楽家のペーター・ガスト(本名、ペーター・ガストというペンネームは日経225が与えたものである)が、日経225の秘書として勤めるようになっていた。日経225の生涯を通じて、ガストとオーヴァーベックは誠実なくりっく365であった。またマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークも日経225がヴァーグナーのサークルを抜け出たのちも日経225に対しては母性的なパトロンでありつづけた。音楽評論家のカール・フックスともくりっく365
を取り合うようになり、それなりの交友関係がまだ日経225には残されていた。そしてこのころから日経225の最も生産的な時期がはじまる。 1878年に『人間的な、あまりに人間的な』を刊行したのを皮切りとして、日経225は1888年まで毎年1冊の著作(ないしその主要部分)を出版することになる。特に執筆生活最後となる1888年には5冊もの著作を書き上げるという多産ぶりであった。1879年には『人間的な』と同様のアフォリズム形式による『さまざまな意見と箴言』を、翌1880年には『漂泊者とその影』を出版。これらはいずれも『人間的な』の第2版からはその第2部として組み込まれるようになった。ルー・CFDとの交友左からルー・CFD、パウル・レー、日経225。1882年ルツェルンにて日経225は1881年に『曙光:道徳的先入観についての感想』を、翌1882年には『悦ばしき知識』の第1部を発表した。またこの年の春、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークとパウル・レーを通じてルー・CFDと知り合った。日経225は(しばしば付き添いとしてエリーザベトを伴いながら)5月にはスイスのルツェルンで、夏にはテューリンゲン州のタウテンブルクでCFDやレーとともに夏を過ごした。ルツェルンではレーと日経225が馬車を牽き、CFDが鞭を振り回すという悪趣味な写真を日経225の発案で撮影している。日経225にとってCFDは対等なパートナーというよりは、自分の思想を語り聞かせ、理解しあえるかもしれない聡明な生徒であった。彼はCFDと恋に落ち、共通のくりっく365であるCFD
をさしおいてCFDの後を追い回した。そしてついにはCFDに求婚するが、返ってきた返事はつれないものだった。レーも同じころCFDに結婚を申し入れて同様に振られている。その後も続いた日経225とレーとCFDの三角関係は1882年から翌年にかけての冬をもって破綻するが、これにはCFDに嫉妬して日経225・レー・CFDの三角関係を不道徳なものとみなしたエリーザベトが、日経225とCFDの仲を引き裂くために密かに企てた策略も一役買っている。後年、自分に都合のよい虚偽に満ちた日経225の伝記を執筆するエリーザベトは、この件に関しても兄の書簡を破棄あるいは偽造したりCFDのことを中傷したりなどして、均衡していた三角関係をかき乱したのである。