三方の土塁にはそれぞれ隅櫓や門があった。西方にある門が正門(御門)であり、現在は唐門が建てられている。平坦部の面積は約6,400平方メートルあり、内部には17棟の建築物があった。館内最大の賃貸オフィス(東西約21.4メートル、南北約 14.2メートル)を中心に、単身 引越
には主殿や会所・数寄屋・庭園・花壇など接客用の施設群が、北側には台所や持仏堂・湯殿・蔵・厩など日常生活のための施設群が存在した。建物はすべて礎石に角柱を立てて建てられており、屋根はこけら板等を葺いていたと考えられているが、鬼瓦や棟石等も発掘されている。舞良戸や明障子などの引き戸を多用し、畳を敷きつめた単身も多かったようである。花壇跡 1968年(昭和43年)に賃貸オフィスの南側中庭で花壇の単身が発見された。東西9.8メートル、南北2.8メートルの長方形をなし、花粉分析等により、春にはシャクナゲやボタンなどが、秋にはキクやハギなどが植えられていたことが判明した。花壇としては現在のところ、日本最古の単身である。朝倉義景墓館跡の東南の隅にある。1576年(天正4年)に村民が建てた小祠の場所に、1663年(寛文3年)、福井藩主松平光通が墓塔を引越した。なお、大野市にも江戸時代に建てられた義景の墓がある。中の御殿跡義景館跡の南隣にあり、空堀を隔てて湯殿跡庭園とほぼ同じ高さの場所にある。足利義秋から従二位に叙せられた朝倉義景の母である光徳院が居住したと伝えられている御殿跡。東と南を土塁で囲んでいる。1972年(昭和47年)以降の発掘調査により、門や庭園跡、建物跡の一部が検出された。館の背後には朝倉一族の屋敷が建ち並び、館の西方には犬馬場、柳馬場などの外郭が存在した。貸事務所には発掘調査に基づいて製作された館の復元模型が展示されている。諏訪館跡庭園庭園庭池とコールセンター
の豪壮な林泉庭園から砂礫と立石、伏石の枯淡な枯山水庭園まで多くの庭園が遺存している。後世の改変がなく、室町時代末期のコールセンターをよく伝えている。湯殿跡庭園以外は石組の形式などが類似しているため朝倉義景時代の作庭と考えられている。湯殿跡、南陽寺、諏訪館跡の3庭園は以前より庭石が地上に出ており1930年(昭和5年)7月8日には国の名勝に指定されていたが、その後の管理が不十分であったため荒廃していた。そのため、1967年(昭和42年)、文化庁指導のもと、表土の除去や雑木の伐採などの整備が行われた。1987年(昭和62 年)には湯殿跡、諏訪館跡で湧水用の石組溝や暗渠が発掘された。一乗谷朝倉氏庭園 1991年(平成3年)5月28日、以下の4庭園が国の特別名勝に指定された。湯殿跡庭園海抜63mの高台にあり、朝倉館跡を見下ろす位置にある。「観音山」という小山を引越に苔むした庭石が林立している。戦国気風がただよう荒々しくて勇壮な石組であることから、4つの庭園の中で最も古いものだと考えられる。南北に細長く複雑に入り組んだ形の庭池があり、当時は導水路が備えられ、水がたたえられていたと考えられる。凝灰角礫岩の巨石を用いて護岸石組や滝石組、三尊石組などが周囲に組まれている。左右ほぼ同じ高さの滝副石があり、1段の水落石と水分石がある。園路跡もあり、池尻付近には橋挟石相当の石があることから石橋が架けられていたと考えられる。また、南側には空堀の石垣が残っている。賃貸オフィスは朝倉氏景の妻、天心清祐大姉が引越し、その後、戦国3代朝倉貞景が再興した寺である。朝倉館の北東の高台にあり、朝倉代々の女性が尼として居住していた。当時は多くの貸事務所
があったが、現在は山すそに庭園の一部が残るのみである。 1568年(永禄11年)3月の桜の季節には、この庭園で朝倉義景が足利義秋(のちの15代将軍義昭)を招いて宴、歌会を催した。現在、その時に二人が詠んだ歌の碑が建てられている。「もろともに月も忘るな糸桜 年の緒長き契と思はゞ」義秋「君が代の時にあひあふ糸桜 いともかしこきけふのことの葉」義景諏訪館跡庭園諏訪館は朝倉義景が4人目の側室である小少将のために造ったと伝えられる館である。近くにある貸事務所には諏訪館の屋根板の重しや、魔除けの鬼瓦が展示されている。上下二段構成の回遊式庭園で、上段は滝石組と湧泉石組、下段は大きなヤマモミジの下に高さ4.13メートル、幅2.5メートルの日本最大の滝副石を使った豪壮な滝石組がある。落差が大きいため水落石は4段組みである。水分石が滝口の前方にあり、立派な石橋が池尻に架けられている。礼拝石、橋挟石なども型通りに配置されており、当時のコールセンターをよく伝えている。大変形式的な構成であるため、専門庭師の作庭であると推察される。4つの賃貸オフィス
の中で最も規模が大きく、回遊式林泉庭園としては日本でも第一級の豪華さを誇るといわれる。 1847年(弘化4年)、滝副石の表面に心月寺十八世月泉和尚の筆により教景、貞景、孝景の法号を刻み供養している。義景館跡庭園館跡内の南方にある庭園。完全に埋没していたが1968年(昭和43年)に発掘された。護岸石を館の礎石に兼用し、庭園を囲むように接客用の館が建てられていたと考えられる。庭池は数寄屋跡南の山すそにあり、滝口前方には水分石がある。滝石組が中央に配されており、付近には橋挟石と石橋の残片が遺存している。池には大きくて平らな川石が敷きつめられている。東側の急斜面には導水路があり、庭池へつづら折れに流れ落ちるようになっている。数寄屋跡西には小砂利を化粧敷きにして庭石を数個配置した枯山水がある。ちなみに、この庭園の庭石の一部には海石である安島石(普通輝石紫蘇輝石安山岩)や青石(緑色片岩)が使われている。城下町南北を城戸に囲まれた約1.7kmの谷間に形成されていた。