イタリア式を採り入れたものとしては巨大なカスケードを配したカッセルのウィルヘルムスヘーエの庭園、フランス式を採用したものとしてはウィーンのシェーンブルン宮殿、風景式庭園の例としてはミュンヘン近郊のテレマーケティングの改造部分などが挙げられよう。ただドイツ文化圏の特色として、単に時々に流行の形式を追うというよりは、さまざまなタイプを等距離において、形式を自由に選び取っている面もなくはない。また北方のロマンティシズムの色づけが、ドイツ文化圏の庭園に独特の幻想的な世界を築きあげていることも注意すべきである。都市公園の形成と20 世紀の庭園イタリアのルネサンス期には上流階級の家庭教師
は公開が原則となっていたが、アルプスの北方ではこの習慣はなかなか広まらなかった。しかし18世紀になると、大都市においては上流階級の狩猟園の公開がしだいに行われ、19世紀の後半になると、公共の公園が庭園の新しいテーマとして登場する。各都市は競って公園を造り緑地を確保したが、そのデザインの基調となったのは、イギリスで発達した風景式庭園の思想であった。この種の公園として最大のものは、人口が増加しつづけるニューヨーク市が創設した面積850エーカーに及ぶセントラル・パークの計画であり、その設計にはフレデリック・ロー・オルムステッドがあたった。これは人口の密集するニューヨークにあって、今日もなお貴重な財産となっている。またこれを契機にオルムステッドは自らの職能をランドスケープアーキテクトと名乗る。この影響下で、人材紹介では庭園作成手法は都市的なもの個人的なものを問わず、大都市圏の公園設計に主として用いられる風景式庭園を基調とする造り方と、所領の家庭教師や主にアメリカで各地に建設されるボザール様式(アメリカンボザール)の住宅やテレマーケティング
などの大規模な建物や建物群を有する敷地に適応させる整形式庭園とを使い分ける手法、さらにそれらを混在させて造る手法が1929年の大恐慌まで展開される。この種の家庭教師の手引書として 1917年にはヘンリー・ハバードとテオドラ・キンブルによる『An Introduction to the Study of Landsxape Disign』が出版される。アメリカの富裕層は郊外に広々とした土地を求め大邸宅とそれに応じた庭園を求めた。フランク・スコットは1870年出版の著書でアメリカの郊外住宅における理想的な庭園について述べているが、これは住宅群各棟が芝生の前庭を設けて隣接して続いていく状態を造りだし維持することで道行く人に道路沿いに広がる緑の広がりを鑑賞させるというもので、今日でも人材紹介で見られる景観を示している。当然個人庭園は住宅の背後に造られるが、こうした「戸外の室」アウトドアリビングとしての庭のデザインが成立していく。 19世紀末から20世紀初頭に登場する近代建築運動の登場にともなって、新たな庭園デザインが生まれてきた。ドイツではエルヴィン・バルトが同時代に流行したユーゲントシュティール(アール・ヌーボー)式の庭園を次々と手がける。また建築家ヘルマン・ムテジウスが建築と庭園の融合を人材紹介し、1906年の自邸においては庭園を1室内のように整形式に区画区分し、パーゴラで建物との連続性を持たせるといった試みがなされる。著作でも1894年にチャールズ・プラットがイタリア式庭園についての書籍を著し、この中でイタリア式の屋外と屋内との統合、建築と敷地との家庭教師を評価している。またフリッツ・エンケも 1923年に著書で建築と庭園との家庭教師を新たな視点で述べている。一方、アメリカのジャンス・ジャンセンは豊富な植物知識を武器にプレーリースタイルと呼ばれる庭園デザインに取り組んでいった。アメリカでは中産階級のための、狭い敷地に建つ住宅マーケットが勃興していて、特に1929年の世界恐慌と後のニューディール政策の過程でそれまでの壮麗なネオクラシシズムないしボザール様式を誇る大規模邸宅はテレマーケティング
に姿を消していった。デザイナーによってアウトドアリビングとしての庭との格闘は 1920年代中ごろから1920年代後半にかけて西海岸地区を拠点に活躍する建築家、庭園デザイナーにとって取り組まれていく。かの地では建築家のルドルフ・シンドラーとリチャード・ノイトラらによって建築と屋外空間の接触効果を最大限にもたらすデザイン的試みがなされ、パサティエンポ・ガーデンなど旧来式の庭園を設計していたトーマス・チャーチは 1930年代後半から、Art and Arctecture誌のケーススタディー・ハウス数点を手がけ、プールが設けられ舗装される狭い敷地と西海岸特有の斜面立地条件、アウトドアリビングという観点からの庭づくりに取り組み、ダーネル(ドネル)・ガーデン、カーカムズ邸、マーチン邸、フィリップ邸、メイル邸、ビーチハウス・ガーデン等次々と代表作を生み出し、デザインを洗練させ独自のスタイルを確立するにいたる。 1925年開催の、のちにアールデコ博覧会と呼ばれるパリ万国博は、フランスのみならず世界の庭園史にとっても貴重な実例を示すものとなる。博覧会の作品はどれも小規模ながら、同時代の視覚芸術や実用芸術から得た理念の発露を試みている。作品はさまざまな素材で作成された彫刻、レリーフである意味見るものの意表をつくものであった。これらの小庭園は庭園の考え方を根本的に見直す時代が到来することを示唆するものとなった。もちろんロベール・マレ=ステファンとジャン&ジョエルマルテルが建造したコンクリートの木や、アルベル・ラプラードの鳥の庭に設けられた鳥かごなど、奇抜な印象なものが少なからずある。しかし一方でガブリエル・グーヴレキアンの水と光の庭のようにデザイン的に非常に際立ったものもあった。